ひとり舞台+ピアノ演奏

 

六千人の命のビザ

杉原幸子著『六千人の命のビザ』(大正出版刊)による

◆台本・演出・ふじたあさたや

◆出演・まつもとぎんこ・守光  明子 

 


音楽の力で (初演チラシより)

 台本・演出 ふじたあさや

 鎌倉の杉原幸子さんをお訪ねしたのは、1991年の春先だった。前年に発表された幸子さんの著書「六千人の命のビザ」を劇化しようと、その許可をいただきながら、当時の詳しい話を伺いにお訪ねしたのである。「こんな話、お芝居になりますかしら」とおっしゃりながら幸子さんは、ご本に書かれたことの裏話や、活字になっていないエピソードなどを、語って下さった。お話の中の原千畝さん、ありありと生きていて、今にも隣の部屋から出て来られそうだった。

  そのお話をもとに、さまざまな資料で補いながら、幸子さんの一人語りの形で劇化し、その年6月に初演した。その後、幸子さんの回想の中に千畝さんが登場する二人芝居の形を試みたりもした。

  観客の想像力を頼りに、過去を現在形で体験的に表現する演劇なら、こういう歴史上の事実を、舞台化できると思ったのだが……言葉の向うのイメージを観客と共有できるあいだなら成り立つこうした関係は、戦争の記憶が遠のくにつれて、成り立ちにくくなる。

  だから、「あの作品、やらせてください」と松本銀子が言ってきたときも、「え、今更」というためらいが一瞬あった。しかし、25年前に「この本、舞台化できませんか」と教えてくれたのは銀子だったし、ピアノとのコラボレーションを試みたいと言い出したのに興味をそそられて、やることにした。

  これが正解だったのである。

  音楽の力はすごい。守光明子さんの演奏も良かったが、選曲が良かった。ギデオン・クラインというユダヤ人作曲家が、ナチの収容所の中で作ったピアノソナタである。一音一音がそそり立って、台詞だけでは伝えきれないイメージの隙間を、見事に補って、観客の心に突き刺さった。

  おかげで作品の命が伸びた。「このやりかたも、ありだな」と、今は思っている。 

 



守光明子

愛知県立芸術大学卒業後、ドイツ国立デトモルト音楽大学を最優秀で卒業。

平成21年度名古屋市民芸術祭審査員特別賞受賞。

Musikus(ムジクス)代表。

EnseemmbieKuu メンバー。

ギデオン・クライン

チェコスロバキアのユダヤ系作曲家。

1941年、ナチスによってテレジン強制収容所に送致される。この時期に「ピアノソナタ」を作曲。

その後アウシュビッツ=ビルヶナウ強制収容所に、それからフュルステングルーベに移送され、1945年の、おそらく1月に他界。収容所が解放される3ヵ月前だった。

ふじたあさや

劇作・演出家。1934年東京生まれ。早大在学中の1953年『富士山麓』〈福田善之合作〉で劇作家として出発。

代表作『日本の教育1960』『ヒロシマについての涙について』『さんしょう太夫(斎田戯曲賞受賞)』『しのだづま考(芸術祭賞受賞)』など。 









「戦争」から学び続ける

                  まつもとぎんこ

杉原幸子さんの『六千人の命のビザ』の出版から20年以上がたち、杉原さんが発行した「通過ビザ」は岐阜県八百津町の杉原千畝記念館に寄贈され、世界遺産の候補にもなりました。

 多くの研究者たちによる「ビザ発給」についての検証がすすみ、幸子さんの「証言」もその一部については見直しもされています。

 日本の敗戦後1年8か月あまり、いくつもの収容所をたらい回しにされ、ようやく日本に帰還した杉原さんは、外務省に退職をうながされ、ご家族は数々の苦難に直面されました。リトアニアで生まれた3男晴生さんの病死はなにより辛いことだったそうです。

 75才までモスクワで単身赴任を続けた杉原さんは、救われたユダヤ人達と再会し、イスラエル政府に表彰されてからも、事件についてはほとんど何も語ることなく生涯を終えられました。

  杉原さんはあの時あの場所で、どうして「人間として当たり前」のことができたのでしょうか・・・。

 「いまこの事実を語っておかなければ戦争の記憶が失われてしまう。」という幸子さんの想いを受け継いで、このひとり芝居を演じていきたいと思います。



◆スタッフ  

○美術・照明 御原祥子○衣装 中矢恵子○写真・映像 清水ジロー○宣伝美術hina